海の価値 大矢内 生気 |
日本はほんとに広いですね。こんなこと言ったら、「極東の小さな島国なのになんで広いの」と叱られますが、じつは世界第6位の大国なんです。
ただし、これにはトリックがあって、陸と海の面積の合計でというのがポイント。
じゃあ、どれほど広いかということなんですが、択捉島北端から、テレビドラマ「ドクター・コトー」の素晴らしいロケで一躍有名になっちゃった沖縄県西端与那国島までがざっくり測って約4,000q。
この4,000qという距離、どれくらいの拡がりか、お分かりになりますか?
ハイ!ここでクエスチョン!
与那国島西崎をポルトガルの西端ロカ岬にあてがうと、択捉島の端っこは、ヨーロッパでは一体どこら辺まで行くことになるでしょう。
答えは?ピレネー山脈辺り?パリ?ベルリン?プラハ?イスタンブール?いえいえ、北京オリンピック開催日に ロシア侵攻で不幸な武力衝突の起きた黒海とカスピ海の中間・
長寿で有名なグルジア共和国辺りまで行っちゃいます。 ということは、東西ヨーロッパの大部分を占めているってことになるんですね。
これって、結構、大きいって言えませんか。
まあ、大ききゃイイということではありませんが、陸上面積は37.7平方キロで世界の59番目の小国かもしれないけど、447万平方キロに及ぶ200カイリ海域をふくめると世界の第6位に躍り出るんです。
これって、海どこの雄武町はじめ離島の存在があってこそなんですよね。それもそのはず、海洋の1地点を200カイリのコンパスの足としてクルッと一回転させると、陸上国土面積を超える42万平方キロに達するんです。
雄武でも半分として21万平方キロ!!だからだから、離島の存在や海岸線を持つ自治体は、存在論的に国家国民貢献をなしているんだってことなんです。
さて、東京湾から南に約1,000qのところに小笠原諸島があります。
1,000qという空間は東京〜長崎くらいです。江戸の町人たちは「辰巳無人島」
と呼んでんで、永く無人島でした。開拓の曙は江戸後期の1830年のことで、5人の欧米人と20人余りの南太平洋の人々によるとされ、明治政府の勧めで住民が日本に帰化した特異な歴史を持っています。
戦時下の昭和19年に一時無人化し、同21年2月にGHQにより日本から分離されましたが、昭和43年に日本へ返還され、現在は東京都に所属しています。欧米系住民や旧住民、返還後にIターンした住民が混住する全国でも珍しい地域です。
今年7月4日には父島で返還40周年記念祭が行われました。現在はホエールウオッチングや、滞在型リゾート地域として根強いファンがおり、当日もみんなでお祝いしました。 考えてみると、雄武の海は、小笠原諸島に繋がり、ロカ岬にも繋がっています。地先の水揚げだけが海の価値じゃないことは、雄武の人たちから声を挙げない限り、内地都市部の人々は分かってくれません。
島国の人たちが海に無関心…。ヨーロッパ各国の知り合いの地政学者・研究者たちから言えば、このことも含めて、日本は「不思議な国」なのだそうです。こんなことでは、ホントはいけないんですよね。とくに、 いまの東アジアの状態を考えればねなんて、思いながら、以下 亜熱帯、固有種の宝庫・小笠原諸島のいまをご覧下さい。
父島の南50qの母島の北港。戦前は母島に2村あった。
ペリー艦隊やアメリカ捕鯨船団の泊地だった東港は右手前になる。
25時間を要して東京港と父島を結ぶ「おがさわら丸」6,700トン。
小笠原諸島恒例の出港見送りの景。このあとどんどん
若者たちが飛び込んで手を振ってくれる。
虹や虹や/里見ゐやれ海見ゐやれ/沖の島には鬼の棲むとや
鬼や鬼や/海見ゐやれ天見ゐやれ/島風をして国へ吹かしめ
< 8/2008 投稿 >
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故郷は遠きに在りて・・・ 北広島市 二俣 恵一 |
三年前の十月に札幌で高校の同期会が催され出席した。
多くの面々とは、卒業以来実に三十八年ぶりの再会だった。
それまでも地域ごとなど小規模の集まりはあっただろうが、各人の住所を可能な限り調べあげて案内を出すところまで徹底したという点では、文字通り初めての同期会
と言っていいかも知れなかった。 当日会場には出席者に名札が用意されていた。もちろん見ればすぐに想い出せる顔もあるが、しかしそこは何と言っても三十八年の
歳月、なかなかすぐには想い出せない顔だって当然あった。 というより、最初のうちは、顔を見合わせながら、それとなく(或いはやっきになって?)相手の顔の中に《昔の顔》を見つけ出そうと努めていたというべきか。
やがて、お互いに《昔の顔》に辿り着けたものどうか、会場のあちらこちらで、次第に話しが弾み始め声も大きくなりそして時には笑いの渦が巻き起こり、それこそ宴
たけなわが延々と続いた。まあそんな調子で、気がつけばほとんどの者が三次会まで参加していたという次第である。
ところで、久し振りの再会の中で幾つか気付かされた(驚かされた)事があった。その中で最も印象的だったのは、同期会の間中、我々道内在住勢のもの静かさ?に比
べて、思いのほか出席者の多かった道外在住勢の元気の良さって言うか威勢の良さが目立った事だった様に思う。
それにしても、この元気の良さみたいなものは一体どこから来るのか。恐らく彼らは早くから故郷を《遠く》離れてこれまで悪戦苦闘しながら荒波を越えて来た…それ
に、《遠い》という事はそうそうは戻れないという事でもある。そんな中で、自ずから元気に逞しくならざるを得なかったのかも知れない… なるほど我々道内勢だっ
て負けず劣らず頑張って来た。しかし、我々の場合は故郷を離れてはいても、彼らほど《遠く》はなかった。 この事は、故郷を《雄武》に限定せず《北海道》に拡大
してみれば、もっとはっきりして来るのではと思う。その場合は、我々道内勢はずうっと故郷の懐に抱かれて来たと言える。
こうした故郷に対する《距離感(想い)》の違いから生じる生活感情の長年の積み重ねが一因となって、あの同期会の中での彼ら道外勢の元気の良さと我々道内勢のも
の静かさとなって表れたのかも知れない。 もちろん自分のこういう感想が思い込みと偏見に満ちた仮説に過ぎないであろう事は重々承知している。しかし、いずれにせ
よ、故郷に対する《距離感》が我々の生活感情その他に何らかの影響を与えるのは確かだろうと思われる。
やはり、《故郷(ふるさと)は遠きに在りて》こそより強く想うものなのだろう…
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