東京・雄武会

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AEDと共に  古希を迎えて思うこと   新沢木出身 佐藤 勝昭

元会長坂本節子氏のお誘いを受け、雄武産業祭りに参加したのは確か 2007であった。

子供のころの友人や小学校2から3年生まで担任の秋山(現姓 佐藤)先生との再会、そして私は同行の坂本節子氏・鈴木浩氏・中村毅氏とともに私の兄の車を駆って、古い記憶を頼りに雄武・興部・紋別の探索GO!!

紋別大山公園では元衆議院議員松田鉄蔵翁の銅像が紋別港とオホーツク海を見下ろしていた。今から9年前、61歳のときである。2016年5月、古稀を迎えてしまった。なんとなく、自覚のないままである。

7年前から友人が立ち上げた一般社団法人の手伝いをするようになった。これは、定年まで勤めた前職とはまったく無関係の“AEDを使った救急救命”関連ボランティアの仕事である。

AEDとは自動体外式除細動器、心臓が細動状態つまり心臓麻痺などの普通の鼓動ではない心臓が震える状態に至った時に細動を取り除き、元の鼓動に戻し救命につなげる機器である。 止まった心臓を動かし、死んだ人を蘇生させる魔法の機器ではない。

一方これには胸骨圧迫という、かつて心臓マッサージと呼んだ手技が重要な要素を占め、この連係が如何に短時間で実行されるかが肝となり、救命率(生存率)を大きく左右することとなる。 一般的に倒れてから救命措置開始まで3分が肝要といわれている。
脳内の血液中酸素が消費され、意識を失い脳から呼吸の指令が出ない場合じわじわと脳が壊れ、救命されたとしても重篤な障害が残る可能性があるからである。

私の場合、この仕事の多くは国内の高速道路SA・PA施設(北海道〜っ九州沖縄まで)に設置してあるAEDの設置状況の確認と機器が使える状態にあるかの確認と、AEDが使える・胸骨圧迫が出来るよう多くの方々に講習を行うことである。

マラソンやサッカーなどで突然死やAEDの使用事例が話題になっているが、統計的には年間死亡事例の比較で交通事故死の10倍もの突然死があるとされている。

講習後、複数回受講の方に『おかげでこの間母親を救命できたよ』などと声掛けされることもあり、定年後のボランティアで、必要とされ皆さんに感謝されることは私にとってこの上ない喜びである。


最近、腰痛のため腰椎の内視鏡手術をした。病名は〔腰部脊柱管狭窄症〕という。 手術はうまくいき、コルセットをして歩く事も普通に出来るようになったが、いまだ自宅のベッドでゴロゴロし、古稀を迎えた自分を見つめなおしているところである。

9月末、仙台・勾当台公園でのNEXCO東日本のイベントにAED講習コーナーでの出展要請があり、手負いの私も皆に混じって参加した。
ほとんど『居るだけ』に近かったかな!?
これをきっかけに活動再開が出来ればよいと思案しているところである。




杜甫いわく『人生七十年古来稀なり』


ご近所の先輩が『70歳! まだ若いね〜』


まだ70歳頑張らねば!!!


                                                                  <  10/2016  投稿 >

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沢木の浜より北見山脈を望む 沢木の海でのうに漁

沢木の浜で        佐藤 勝昭

昔、そう!ずっと昔沢木の前浜で泳いだ。

水めがねを付けた私はガンゼを捕って、卵をガンゼの殻に詰めたりホタテ貝の殻にのせたりし、流木の焚火で焼き、流木の破片を箸代 わりに使い『ほくほく、フーフー』食べた。
本当にうまかった。
今では考えられないことであろう。

築港の突端でアブラコを釣った。
馬鈴薯を入れる竹籠にイッパイである。
重い竹籠を抱え「よろけ、よろけ」ようやく家に持ち帰った。
あのときのアブラコはどうやって食べたかは今記憶に無い。

四十六年ぶりの日の出岬との再会は私の胸にこんな想い出を一気に呼び戻してくれた。
東京・雄武会坂本会長のお誘いを受け、「雄武産業観光祭り」に参加し、若干の時間の余裕を作った私はふるさと沢木日の出岬・ 沢木漁港そして紋別港・魚田で昔のように釣り糸を垂らし兄と共にカレイを沢山釣った。

又、四十六年ぶりの旧友との語らいは飾り立てた言葉や沢山のご馳走を必要としなかった。

周辺の市や町の商店街の多くがシャッターを下ろしているなか、雄武の町並みや港に活気があるのを目の当たりにしホッと安堵した。そして、雄武産業観光祭りの賑わいや沢山の 海産物に興奮し、人混みに身を任せ、ヨサコイソーランに見とれ、一時を楽しんだ少年の心の私は気が付けば今既に還暦をすぎていた。

感動の機会を作って下さった東京雄武会坂本会長始めご一緒させて戴いた鈴木浩様、中村毅様、吉村諒子様、吉田登美子様に感謝申し上げ、ふるさと雄武町の益々の発展を祈念し雄叫びを!!

ふるさと雄武万歳!
ふるさと沢木万歳!
東京・雄武会万歳!

                                                                  <  10/2007  投稿 >

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ふるさと回想(2007年度雄武産業祭りに参加して)   鈴木 浩

 2年ぶりに帰郷した。 「東京・雄武会」 会長を中心に現地での合流者も含め、6名のメンバーで、6月23〜24日に開催された、「第29回雄武町産業観光祭り」に参加した。

 天候に恵まれて、ふる郷ふれあい交流会、産業観光まつりに、大勢の町民、他の市町村から参加の人々と、あわせて旧友、友人、知人と老齢76歳にして、ひとしおのものが有った。
ホテル日の出岬での交流会、毛蟹の美味しさはさすがオホーツクの民!!わが故郷の誇れる絶品、「姉妹都市」九州武雄市よりの、銘酒もたっぷりと堪能し、嬉々いっぱいの一夜は明けた。

 早朝、日の出岬に咲く草花と、岬突端までの散策は、青春時代S嬢とのピクニック?感慨ひとしをの思い・・・も又、熱き思い。

13日昼食を取った日の出岬のレストラン

 朝食をクループで和やかに済ませ、町手配のバスで「産業観光まつり」会場へ、祈願祭、会長以下東京からの参加者全員で礼拝 ”本年も豊年大漁を願う“。
 (式典終了後)よさこいソーランの踊りを見たくて、暫し場内の物産展を見ながら酒を飲み、焼き鳥を食べなら待ち焦がれ、お待ちかね ソーランスタート。新琴似の新鋭黒帯装束スタイル の乱舞には暫しほれっぱなし。協力してくださった枝幸地町、踊り姫たちの見事な手足捌き、わが雄武町の若衆による明るく、笑顔で朗らかな、太陽真紅の衣装が印象的であった。

舞灯雄武 綺麗真紅の後姿です。

 沢木出身の佐藤さんを紹介されたのは、ホテル日の出岬に着いたその夕方であった。初対面とは申せ、健康的で実行力の好壮年である。
25日(月)朝、ホテルを後にする。佐藤さんの興部に住む、お兄さんの車にご厄介になり、一泊する「紋別セントラルホテル」へ向かう。以下文面を省略して述べることにする。

 途中興部町の小高い丘に建つ、とんがり帽子の建物を、いつか訪ねたいと思っていた事が実現できた。
乱れ咲く夏の草花やレッドクローバー。丘から見下ろす興部町の港や風景。少し車を走らせ、六十年振りの沙留漁港や家並み。懐かしい旧友に思いを馳せた。大野哲雄氏は元気かな・・・。


モーモー城(正式名称=農業科学研究セター) (旧姓)秋山 昌子さんと。数十年振りの再会、懐かしく 本当に嬉しかった。

 やがて念願の紋別市内へ、佐藤さんにとって 秋山昌子先生は24のひとみの「大石先生」のような存在!!再会を願い。住宅地の坂を上ったり下ったり。私も興和小時代、同じく代用教員として 採用された仲間の一人。潮見町の小高い丘にようやく訪ね、突然の訪問に驚き出てきた昌子女史と玄関口で感激の再会、汗でもあり涙でもあつた。

 日付は前後するが、流氷館へ行く途中、ガリンコ号保留地の食堂、昼食タイムで佐藤さんにご馳走になった、一杯のビールは格別で喉がうなる。脂っこいラーメンは半分。矢張り北海道の料理と暫し談笑。

 その後 波止場まで赴き、二代目ガリンコ号を背に記念にパチリ。夜ホテルにて揃って夕食。夜のとばりは早い!海軍時代の中村氏の武勇伝?の数々、楽しい話は尽きない。
佐藤氏・会長・中村氏・鈴木の4名は思い出に浸る。



紋別ガリンコ号 松田氏銅像

 翌26日、紋別市最後の朝食をゆっくり取り、10時ホテルを出発。午後の出発時間まで十分時間があるため、佐藤さんの提案によりこの旅の最後の観光場所として、大山公園に立ち寄ることになった。
 めざす大山公園は、緑深い山道を曲がりくねり、小高い山頂へ、エゾ松。トド松林が続く。山頂には人影がまばら、春蝉をきく。
広い公園の、オホーツク海を見おろす大地に松田鉄蔵代議士の銅像が、勲章姿で建っていた。(鳩山内閣時代の政務官)北海道開拓時代、紋別発展の功労者であり、父の友人でもあった。
 代議士時代に、学生の頃世話に成った時や、幼少時代訪問されし 遠い日の思い出が頭を駆け巡る。

 22日(金)〜26日(火)までの駆け足旅行であったが、機中 中身の濃い一ページが・・・胸にこみ上げる。

会長・同行者諸氏に感謝。ペンを置く(多謝)。

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