おうむHISTORY |
開拓期 |
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明治2年(1869)、蝦夷地は「北海道」となり、11国86軍が設置され、明治5年には北見国紋別郡10ヶ所村の中に 「サワキ村」「ヲム村」「ホロナイ村」が誕生した。その時の資料によると、郡内には97戸382人のアイヌの人たち が暮らしていたことが分かっています。
明治8年にはそれぞれの村名が漢字表記となり、翌9年には苫前から宗谷・江差・雄武・網走・根室を結ぶ海岸線に郵便
が通りました。
初めて和人定住者が入植したのは、明治17年、雄武村に竹内徳助(のちに転出)、苫米地元次郎兄弟が来村して、 それまで藤野家が独占していた漁場に進出し、折からのニシン大漁に恵まれ大成功を収めました。苫米地は村総代人をはじめ公共事業 での功績も大きく、元老として村の開発に貢献しました。幌内村では、同時期に来村した藤島福治が、漁業を営みながら 官設駅逓取扱人、幌内郵便局初代局長の公務も務め、村に貢献しています。
明治24年には近江八幡の実業家である西川貞二郎が北見新漁場の開発に乗り出し、雄武の漁場発展と市街地形成に尽力 しました。
雄武の漁場としての礎は、この明治期に創られたのです。
町内における最初の教育は、明治29年、真宗大谷派東本願寺説教所(現:満徳寺)に北海道慈善教育所が設けられ、 開基住職となった福井恵實が布教の合間に寺子屋式で14名ほどの児童を教育していました。またこのころ、真宗大谷派札幌別院幌内 説教所(現:宝龍寺)に函館慈善会幌内支部が併設され、僧侶の巌城静政が児童10名に読み書きを教えていました。その後、 道庁から寺号公称の許可を受けて宝龍寺が誕生しますが、この寺院が雄武町で最も歴史が深いのです。
明治30年5月、雄武市街に約50坪の校舎が落成し、同年12月に16名の児童で雄武町尋常小学校が開校しました。 同年10月には幌内に64坪の校舎が完成、約20名の児童に対して授業を開始し、翌年、幌内尋常小学校として正式に 認可されました。
雄武町で最初となる幌内厳島神社は明治30年に創立し、後に内務大臣より無格社の公認を受けています。一方、雄武神社の 設立は、明治35年10月とされています。
早暁期 |
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明治33年(1900)、雄武・幌内・沢木・興部の4カ村が分村独立して、雄武外3カ村戸長役場が雄武村に設置されました。 初代戸長には、紋別外8カ所時代の戸長である佐藤信吉が就任しました。
雄武原野に初めて農民が入ったのは明治34年のことでした。当時、大地積を占有した田口源太郎は、獲得した500町歩の原野に富山県から 移住してきた小作人を配し、明治37年から開拓事業に着手しました。
雄武町の開拓事業は、明示30年半ばから本格的に始まったのです。
雄武外3カ村戸長役場から、興部村が分村独立した明治42年当時は、雄武村338戸、幌内村137戸、沢木村40戸があり、 その後、農業入植者が急激に増え、村勢は拡大していきました。
大正4年(1915)、雄武外2カ村に待望の二級町村制が施行され、住民はどこでも胸を張って歩けるような喜びを味わいました。 その時の戸長であった本多国彦は村長に任命され、3村併せて「雄武村」とし、これまでの村はそれぞれ「大字雄武村」「大字興部村」「大字沢木村」 と呼称することになりました。また、二級町村への昇格に伴い、初めての村会議員選挙が行われ10名が当選しましたが、当時の選挙資格は、男子で 一定以上の税金を収める者などの制限がありました。
この頃の特徴としては鉱山の開抗があります。隣村である枝幸の砂金ブームが雄武での採掘に発展し、中雄武の中の沢・上の沢・上幌内 の砂金沢が発見されたといわれています。雄武威鉱山は、そうした砂金脈をたどり発見され、鉱石は高品位との評価を受け、大正後期に開抗されました。 昭和3年に開抗した北隆鉱山は、青化精錬所を開設し、さらに私設発電所を備え、それに伴い採鉱量も順調に伸び続けました。操業規模は非常に大きく、 最盛期の従業員は500人にのぼる勢いで、鉱夫住宅や小学校の併設、郵便局が相次いで建てられ、北隆会館では映画や演芸が行われました。また、 各種福利厚生施設や生活用品の供給所等が設けられ、さらに鉱区外には料理屋ができ「山中の不夜城」として盛栄を誇りました。
昭和前期 |
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昭和4年(1929)、男子普通選挙制が定められてから初めての雄武村会議員選挙が行われ12名が当選し、この期から議員の任期は4年 となりました。このときの普通選挙は納税に関係なく25歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権が与えられ、選挙制度は大きく前進しました。
この頃、発動機船による沖合漁業が盛んになり、漁船の大型化に伴って船入澗築設の必要性が高まり、着工から2年を費やして昭和9年9月に 雄武船入澗が完成しました。これと平行して進められてきた興部・雄武間の興浜南線鉄道も昭和10年9月に開通し、海陸呼応して雄武の大きな夜明けとなりました。 こうして不況の最中にも雄武の近代化が進められていったのでした。
この時代の漁業を語る上で忘れてならないのは「北見合同」の隆盛です。鮭漁の合同経営は、時の道庁水産部も理想的な経営と推称しました。 興浜南線が開通した頃は生鮭の需要が増し、壁の隙間に鋸くずを入れて防熱した貨車に、氷を入れて冷やした生鮭を満載して、東京・大阪方面に出荷していました。
一方、雄武の畜産は、昭和初期からしだいに酪農の移行が始まります。この頃、畜産農家には手回しの遠心分離器があり、生乳をクリームにして 馬車か馬そりで興部まで運び、興部から名寄の乳製品工場まで汽車で運搬していました。
昭和20年(1945)終戦。焦土抗戦を覚悟していた緊張感から一気に開放されましたが、反面、虚脱感に陥り、食料・物資の不足も手伝って 、とかく末梢神経だけの日々を送りがちでした。村民一体となって食糧問題を乗り切る一方、戦後開拓移民の入植が拡大していきますが、受け入れ態勢が整っていない ため離農者が続出しました。
昭和22年4月、初の公選村長に地元出身の三国友之助が就任しました。そのあとを受けた山崎進村長は「村政の現状と施政方針の概要」を発表し 、この懸案事項として町制施行を掲げ、昭和23年10月1日ついに町制が施行されることになりました。また、6・3・3制の学制実施、また郵便局以外の金融機関として 初めてとなる北海道拓殖銀行の特別出張所が出来るなど、戦後復興が着実に進む中、昭和25年、雄武町は開基50周年を迎えました。
昭和中期 |
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昭和28年(1953)、中川原光雄町長が誕生しました。このとき43歳の青年町長でしたが、冷害、凶作が続いて町民経済、町財政は苦しい状況でした。
昭和29年は多難な年で、5月23日午後9時頃、錦町のパチンコ店から出火、商店街は大火に見舞われました。鎮火まで実に10時間も延焼した猛火で 、被災者は84世帯468人におよび、損害額1億6,900万円の大惨事となりました。さらに、大火の傷跡が消えない9月26日夜半から7時間余りにわたって 猛威を振るったのは台風15号、いわゆる洞爺丸台風でした。平均風速32m、瞬間最大風速43,8mという未曾有の暴風雨で、特に森林被害は大きく風倒木は50万石 に達し、その処理と搬出は実に6年間にわたって継続されました。
昭和33年、9年の歳月を要して待望の元稲府漁港が完成し、盛大な落成式が挙行されました。また同年、雄武林務署が開設され、事業実績は初年度に 造材事業で1億円以上の収益を上げ、全道の4分の1を稼ぎ出すほどでした。
昭和36年には商工会の法制化により、雄武町商工会がオコツナイ1号線中通り36番地に設立されました。前年11月に錦町で商店を営む表辰造が発起人代表となって 設立を呼びかけ、151の事業者が賛同してスタートしたのです。
昭和45年、雄武町が開基70周年を迎えるにあたり、当時の中川原町長は町民憲章の制定を提案しました。町内各層より108名の制定委員が選出され、町民のアンケート の実施を経て、雄武町民憲章は昭和46年3月に制定されました。
雄武町が将来進むべき方向をあらわす初めての総合計画は昭和47年に策定され、この時から10ヵ年の長期計画がスタートしました。
総合計画による新しい町づくりが始まった矢先、昭和47年5月25日夕刻に市街地を2度目の大火が襲いました。駅前の呉服店付近を火元とした火災は、最大風速 25mの強風により市街地一体に燃え広がって18,000m2を焼け尽くし、被災者は50世帯170人におよび、被害額は2億円を超える大惨事となりました。
昭和後期〜平成期 |
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昭和47年(1972)、中川原町長が勇退した後、前町議会議長の飯原孝喜が246票の僅差で町長に選ばれました。この頃から、町内外に親しまれている各種イベント が誕生します。昭和54年には雄武町のメインイベントである産業観光まつり、57年にはオホーツクの夏の風物詩であるオホーツクサイクリングが初めて開催されました。昭和55年には 開基80周年を記念して、町の花「ハマナス」、町の木「トドマツ」、町の鳥「カッコウ」が制定されました。昭和56年には興浜南線が国鉄赤字ローカル線の対象となり、厳しい廃止反対運動 を展開しましたが、昭和60年7月14日、50年間にわたる軌跡を残し、ついに廃線の日を迎えたのです。
昭和63年、飯原町長の勇退後、前収入役の片山昭八が当選し、平成を迎えます。平成に入ると北海道各地でパークゴルフが一大ブームになり、平成3年(1991)、宮の森公園に パークゴルフ場が開設され、今では36ホールまで発展しています。町では平成6年8月から日の出岬での温泉掘削を開始し、同年12月に待望の温泉が湧き出しました。 オホーツクオムイ温泉が誕生したのです。
平成7年、片山町長の退職後、元町議会副議長の田原賢一が接戦を制して当選しました。この年から、大通り商店街の近代化事業が始まり、国道の拡幅整備と合わせて商店の改築が行われて いきました。平成9年12月10日、温泉湧出から4年目のこの日、「オホーツク温泉ホテル日の出岬」と名付けられた宿泊入浴施設がオープンしました。平成12年(2000)は、戸長役場が設置 されてから100年目となる記念すべき年で、町では「ふるさと100年」と銘打って、多彩な記念事業を実施しました。平成13年度から建設が始まった新国保病院は、平成15年4月1日に開院の運び となりました。小高い丘の上に建設され、市街地やオホーツク海も一望できる素晴らしい環境の中にあります。
近年の一番の問題は市町村合併で、国の合併推進政策により各地で「平成の大合併」が起こりましたが、田原町長は「合併問題は住民が自主的に判断すべきもの」とし、住民説明会を開催。 「自主独立で進むことを優先する」という住民の意思を確認し、雄武町は自立したまちづくりを進めることにしました。さらに、平成18年8月には自主自立の方針として「雄武町自立推進プラン」を策定し 、現在、地域力を活かしたまちづくりに取り組んでいます。
そして、平成20年3月には「変革と創造に挑むまち・雄武」という将来像のもと新しい雄武町の地域経営指針として、第5期雄武町総合計画を策定しています。