今月のお知らせ (8月) |
残暑の候。皆様いかがお過ごしですか。
このHP(ホームページ)記載も今回の更新を持ちまして終了とさせていただきます。平成18年(2006年)に”東京・雄武会”事務局長に就任となりまして、その翌年にHPを公開させていただきました。思い起こせば、公開時期に当たりまして札幌雄武会に置きましてもHP公開を考えていると言う情報が何処から入ったのか不明となってしまいましたが、”よし!札幌には負けないように頑張るか”と言い訳がましい話ですが、作成資料として好意にしていただいていた元会社の私と別部署であった部長さんが持参しておりました”ホームページビルダ”と言うユーザー向けの専門書を拝借しトップページ作成して見たのですが何となく気に入らず、それこそ真の専門書である”HTML&CSS””HTML&JavaScript”等を若干会員の皆様からの参加費からと自らも出費して購入し、我ながら猛烈に勉強し製作始めたのでした。当時の公式雄武町HPのトップページを参考にして作成して見たのです。不満は多々ありましたが、雄武会開催までに何とか間に合い、良しとしたのでした。そのためかどうか分かりませんが、ほんの僅かな違いで札幌雄武会のHP公開を先に譲ってしまい、少々残念に思ったこと覚えています。
HP内に会員の皆様宛に連絡事項でもと軽い気持ちで”お知らせページ”欄を作成したのですが、これが正直私のまったくの思い上がりで年1回の東京雄武会開催では、お知らせしたい事があまり無く、今月のお知らせ事項ありませんと記載する月が多くなってしまったのです。”何かあるでしょう”と言われ、誰にも相談もせず自分勝手に作成したことに後悔し、ともかく上手に書けなくても良いから、まず自分の興味あることでも書いて見るかと、現在に至ってしまったと思っております。今回は最後の公開に当たり、同様な思いで過去好きな有名人記載させて来ましたが、今回1度も記載したことの無いであろう有名人を紹介して見ることにして見ました。そのような思いで今回で最後を迎えますが、これでやっと苦痛解消となるなと感じながらも、何処か寂しいような気持ちもしております。
大好きな人物記載にあたり、なんと言っても思い出すのは”ミスタージャイアンツ長嶋茂雄三塁手”であり”読売ジャイアンツ終身名誉監督”1936年生まれでした。多摩川園前の駅に降りすぐさま河川敷に構えるジャイアンツ練習場に向かい、長嶋選手のきりっと引き締まったお尻を見ながら森昌彦捕手(当時は外野手だったか)とのキャッチボール眺めるのが1番の楽しみでした。野球の基本は何があろうとキャッチボールが大事とミスターに教えてもらった感がしたのでした。次なる大好きであった有名人は映画俳優赤木圭一郎でした。時は1961年2月です”激流に生きる男”撮影中のお昼頃でした。一緒に撮影中の少年江木俊夫君(のちフォーリブスと言うグループに入り大活躍しました)にゴーカートあるから乗って見ようかと誘われ、そばにいた小林旭に危ないからやめて一緒にご飯食べに行こうと誘われて良かったですね。すぐにです彼はブレーキとアクセル間違えたのでしょう、ゴーカートごと壁に激突し数日後亡くなってしまったのでした。僅か2年間の俳優生活で当時は月1本の映画を作成し21歳と9か月の若さで、石原裕次郎主演映画でのほんの僅かな初出演から22本の主演映画撮影し、非業の死を遂げたでした。私が中学3年生の時であり、新聞見出し見て分かったのです。”よし!東京へ行ったら必ず墓参りしよう”と自分なりに誓いを立てたのですが、その後大学時代から東京へ行ったのですが、お墓詣りに今だ行ってはおりません。この映画のちに高橋英樹主演で撮影したはずです。東京に出て歌謡曲あまり聞かないのに赤木圭一郎の歌だけは知っており、初めて”--人間赤木圭一郎--”と銘打った3枚組LP版を購入したのでした。その他好きな人・嫌いな人結構このページに記載させていただきましたが、3人目の好きな有名人を最後の最後に記載させていただくことにしました。
その名は流行歌手の森進一と言います。演歌歌手と呼ばれることが嫌で"僕が歌って来たのは演歌だけではなく、どんなジャンルの歌でも歌って来た流行歌手です"と説明しているのです。実は私と同じ1947年生まれなのです。本名は森内一寛(もりうちかずひろ)と言います。身長は167cm、体重49Kgと私より身長ちょっぴり低く体重6・7Kgほど軽いです。軽いのは持病であるC型肝炎その他の病気のせいかも知れません。子供は森昌子との間に3人の息子がおります。長男と3男はロックバンドの歌手(長男は1曲大ヒット有)であり次男はテレビ東京の社員だそうです。
ネットによりますと彼は山梨県甲府市にて生まれ、母子家庭に育ち、沼津・下関等を転々したとあり、最終的には母(名前は尚子)の故郷・鹿児島に落ち着き、中学校卒業後一人集団就職で大阪に出て来たとありました。彼には妹とその下の弟の二人がおり、4人での生活は苦しい毎日ばかりで生活保護も受けていた時期もあったそうです。彼は長男であるが故、少しでも賃金の高いであろうアルバイト先を求め20回くらい職を変え頑張ったとありました。
1965年(昭和40年)に、のど自慢番組で優勝し、音楽プロデューサーのチャーリー石黒氏に見出され、渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属したのでした。ネットによると芸名の名づけ親はハナ肇氏だったようです。本名の”森”と”一”と社長である渡辺晋氏から1文字”晋”をいただき”進”と変えて名付けたそうです。森進一と言う芸名となり、声も通常の声でルックスも良かったのでポップス系を歌わせようとしたのですが個性が弱すぎると言うことから、チャーリー石黒が声を潰し演歌を歌わせようと森と渡辺プロを説得し翌年1966年に当時そう有名でもなかった猪俣公章作曲の”女のためいき”でデビューとなったのです。その後数々の作曲を提供し森進一を1人前に育て上げ、作曲家として成果を上げ、次に坂本冬美を自分の家に住まわせながら、これまた大歌手に育て上げたのでした。その後優雅になったことでもあり、酒飲み過ぎの毎日が続き、のち肺がんのため1993年55歳にて旅立ったのでした。やはり冬美が語った言葉は”先生は毎日お酒ばかり飲んでいました”でした。短い生涯でしたが大ヒットメーカーと思っており、他の歌手においても”噂の女””空港””京都から博多まで””女のブルース””君こそわが命””千曲川””さらばハイセイコー””大阪ラブソデー”等々数多くの曲を提供した素晴らしい才能を持った作曲家でした。
この時代でしたかキーちゃん覚えていますか、”よしや”のおじさん(キーちゃんのお母さんと姉弟同士:合っているよね)に問屋さんに向かう車でしょうか2度ほど乗せてもらって旭川まででしたか一緒に行ったよね。そこで”涙のシャンソン人形”と”チャペル・オブ・ラブ”のポップス曲2度(1枚は前年かな)買った思い出あるのです。”チャペル・オブ・ラブ”購入時はそのレコード後ろの席の太陽当たるところに置いてしまい、帰ってから曲かけて見たらレコードが熱でぐちゃぐちゃになっていたこと懐かしく思い出してしまいました。歌であり演奏曲でありアメリカ製ポップスばかり聞いていた時代でした。余談ですが母が言うには、かなり以前の年ですが黛ジュンが大好きだったそうです。少し若過ぎの時代の事でしたが、その記憶も覚えています。
以下当時ヒットした森進一の名曲の数々を年代別に記載しながら順にその時の思い出話を記載させて行くことにします。よろしくお付き合いの程お願い致します。
まず1966年はどうのような時期であったかと言いますと、私は大学1年生であり、当時大学の寮に入居中で、確か寮の食堂のテレビで年増の人なら誰もが知っているであろうビートルズの来日を見たのでした。確か法被姿で演奏している所も見ました。ジョンとポールとジョージとリンゴで歌うは良いとして、絶えず前にセットされたマイクが何度も何度も揺れ動くのです。それを彼達が押さえ正規位置に戻す行為を繰り返すばかりなのです。歌っているのか、マイク位置直しているのか分かりません。日本人として担当者のマイク設定のだらしなさを見ました。当時の感想は”日本の芸能界の情けなさ”これだけでした。私はビートルズのファンではありませんでしたが高校1年生時”9500万人のポピュラーリクエスト”と言うラジオ音楽番組いつも聞いておりましたのでデビュー当時の事は良く覚えています。ベストテン(ビルボード誌上でしたか)に発売5曲全部入っており失神した女性がたくさん出ていると聞かされた時は、そんなことってあるのかとびっくりした記憶が強烈に残っているのです。”I Want To Hold Your Hand”この英語だけは今でもはっきり記憶しているのです。少し読むとファンならすぐに分かりますよね。”抱きしめたい”と言う日本の曲名なのでした。この曲聞いて”随分うるさい歌だな。アメリカってこんな歌流行るのか”が感想でした。この時代は日本の歌謡曲を聞くことはほとんどなく、年末での紅白歌合戦時だけは点けっぱなしのテレビで見ていたことは記憶にあります。
森進一を知ったのは1967年でした。大学2年生の冬、アルバイトで大森にある山本山海苔店(余談:当時は山本海苔店の山本陽子のCMが大流行しましたね)と言う似たような会社で仕事は海苔のくずを集め”ふりかけ海苔”を作る仕事でした。海苔くず無くなるたびに、女性達が正規にカットした海苔を缶の中に詰める流れ作業場に入り海苔くずを貰いに行くのです。ちょっと話をした女性がいたのでしょう。アルバイト完了し”さあ、お金入ったことだし早く雄武に帰りみんなと飲もう!”と帰りしな”そういえばあの彼女と少し話して帰れば良かったナ”と駅に向かって橋に渡る途中で”残念”とばかり何となく振り返ったら、彼女ニコニコ微笑みながらついて来るじゃありませんか。なんと感想言ったら良いのか、橋の上は勿論のこと道路一面雪景色だった事も強く思い出してしまったのです。東京に来て初めて一面雪模様見たのです。ともかく横浜駅まで一緒に来てその駅を出て相鉄線に向かっての途中の喫茶店に入ったのです。そこで歌が流れていたのでしょう”この歌知ってる?今大ヒットしているのよ””森進一と言うのよ”だから?との感想だったかも。時間は午後6時頃で夕飯まだだし、明日帰る支度しなくちゃと、明日北海道の故郷へ帰ることを彼女に話し、支度が待っているとも話し、帰って来たら又会いたいとも話し、電話番号でも聞いたのかな、彼女に何か写真でも持っている?と聞いたら、バックから免許書に貼るような小さな写真を取り出したのでそれをいただき綱島のアパートに帰ったのです。・・たみちゃん、よっちゃんと大いに酒を飲み楽しい正月を過ごし横浜に帰って来たのですが、彼女のこと雄武ですっかり忘れてしまったのか電話することは1度もありませんでした。
その時のおかげでしょうか初めて”命かれても””盛り場ブルース”と言う歌を知り、青江三奈と一緒での”ため息路線”と言う言葉を知り、その時は私にとって青江三奈の”恍惚のブルース”の歌詞に衝撃を受けたのでした。その後横浜市にある何度行っている町のためか”伊勢佐木町ブルース”を好きになり、むしろ三奈ちゃんの方が印象強かったようです。翌年でしたか”花と蝶””ひとり酒場で””年上の女”が続けて大ヒットし、よく覚えていることは、当時名司会者の高橋圭三の音楽番組に出演し”森君!今週も第1位でしたよ”の言動よく覚えているのです。当然”第19回NHK紅白歌合戦”に初出場となり”花と蝶”を熱唱したのでした。
同じ1968年に”影を慕いて”と言う古賀政男作詞、作曲の名曲ですが、猪俣公章が弟子であったため企画主導でLP版製作し、森進一に歌わせ大変話題となり大ヒットにつながり60万枚売り上げたそうです。なんと古賀氏がレコーディングに立ち合い、助言まで与えたそうです。しかもテレビに出て来て”皆さん!この歌は森君に歌っていただき大変嬉しいのですが、実はこの歌は森君のために作った曲ではないのです。歌手の藤山一郎君ために以前作った歌なのです”とざわざ発表までしたのです。ネットでは1932年に藤山一郎が歴史的に大ヒットさせた作品とありました。さらに古賀氏への尊敬の念を公にし、数枚のLP版をリリースしたそうです。
そして1969年に220万枚を売り切った大ヒット曲”港町ブルース”へとつながり、22歳の若さで第11回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞、さらに出場2回目にしてこの年の『第20回NHK紅白歌合戦』の白組におけるトリ歴代最年少年記録になったのでした。
この年に九州は長崎市出身の前川清が内山田とクールファイブのリードボーカルとして”長崎は今日も雨だった”でデビューしました。この時のエピソードありまして、森も同じ九州出身だったため、ヒットさせたいがためと思いますが前川に”お前はステージでは一切何も喋るな”との事でした。私が森に好感を持った1つは、私と似て喋りが下手かなと感じていたので”ああ、やっぱりな”と変に安心もしたのでした。前川歌手全くその通りにしており、後日その思い述べていたのが印象に残っております。2曲目”噂の女”が大ヒットしその方面のお偉いさんのコメントは”前川演歌凄さを見た”と絶賛したのでした。そのお偉いさんとは現在の吉永小百合の夫と理解しています。この大ヒットとなった曲は、実は森の次の発表曲で勿論猪股公章作曲ですが”港町ブルース”が売れ続けていたのでクールファイブに譲ったとありました。のちに前川が森に述べていて、勿論知っていたであろう森が自分の歌であるかのように楽しく”噂の女”を歌ったりもしていました。
そして1970年私は京王線幡ヶ谷にある会社の開発設計課に勤務することになったのです。アンプ回路の基板設計していて組み立てもして再生音確認時には必ずテープに入れて持って来た森進一の演歌曲をよく聞いたものです。優秀で飲み会相手の1年先輩に”おい!又森進一か”とよく言われたものです。”銀座の女””望郷”の印象が強く残った、大好きだった年でした。
1971年でしたか初めて”森進一大全集”の4枚組LP版購入したのです。いろいろな写真がLP版と同じ寸法の用紙に写されており4人の家族のほほえましい写真や、お母さんを後ろから両手で肩に添えた素晴らしい二人の写真大変よく写っておりました。現在は年末のNHK紅白歌合戦開かれるだけですが、その時代は各局競い合って歌謡大賞とか有線大賞とかの年末歌謡番組が開催されていたのです。各局共にその番組に向けての歌番組も開かれて森進一も必ずと言って良いほど各局に登場していたのですが、その番組になんと妹さんがお祝いの花束を贈呈するかのように森進一の前に登場して来たのです。まさに楽しそうなツーショットを初めて見たのでした。この年は”おふくろさん”が発売され2度目の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞し、年末の第22回NHK紅白歌合戦に3年連続トリを務め、最高の1年を謳歌した年だったかも知れません。
1972年に大変なことが起こってしまいました。森家に不幸が訪れたのです。お母さんがバセドウ病にて入院することになり、その部屋に若い女性が”森君の大ファンです”と訪れて来たのです。詳細は不明ですが、息子のファンと聞き、そのまま返すのもままならないことと思ったのでしょう。優しい言葉を少しかけ過ぎたのか、その後”森君は私の彼氏です。子供産んだことあります”と彼女は世間にぶちまける結果となり、大騒ぎとなってしまったのです。まあ専門家達はすぐ調べ婚約不履行であること判明したのですが、お母さんが”こうなったのは私の責任です”と翌年すぐにでしたか自殺を遂げてしまったのでした。47歳でのガス自殺だったそうです。とうとう兄・妹・弟の3人の家族だけとなってしまいました。現在妹さんは奥さんとしてさぞかし頑張っていることでしょう。3番目の末っ子は医者を目指していて、兄として応援し目的を達成させたのですが、のちに病名は定かではありませんが病死してしまったと聞いたのでした。母親旅立っての2月に新曲を発売することになっており、ファンの皆様に、ご迷惑をおかけしスミマセンの思いが強かったのでしょう、シングル版での表紙画面に5分刈りの頭姿にして乗せ”夜の走り雨”を発売したのでした。
実は1971年に戻りますが川内康範作詞、猪俣公章作曲”おふくろさん”上述もしましたが5月に発表されており、それこそ森のおふくろさん亡くなるまで2年も費やしていない事知って個人的になんとも言えない複雑な思いしたこと覚えております。この時の川内氏は2年前に”花と蝶”の作詞から森と好意の中になっており母親が亡くなった時の葬儀まで率先して取り仕切ったそうです。しかしながら2007年にどうしたことか、森と川内氏の間に不可解な出来事が起こったのでした。それはおふくろさんの歌唱の前に短い歌詞や歌曲(バースと言い、曲中のサビにいたるまで、のこと)を加えて歌ったのです。何時からそれら加えたのか不明ですが、川内氏も当然知っていながらそのままで歌わしていたのです。私も言われるバース付けた歌唱知っていますし、現在その歌唱曲(通常の歌唱前に”かあ〜さん”と2回繰り返していた)ストックしておりますよ。その他の言葉もいろいろあるのです。それが20数年経ってから森進一に勝手に歌詞を加えてはならん。歌うことも許さないとケチをつけ始め、他の自分の作詞曲も歌うことならんと始めたのです。常識的に、歌う本人はプロジューサ達いる限り絶対に勝手に付けたしたり出来ないはずです。勝手に付けるとバック演奏団の皆さんや指揮者どうすればいいの?全くの常識知らずのおじさんいや爺さんでした。でも森は菓子袋抱いて謝りに何度も家まで通ったのですが1度も会ってさえくれませんでした。俗に言う”おふくろさん騒動”でした。そしてその後和解することなく他界してしまうのでした。記事によると”森の不手際と人付き合いの下手さに川内は辟易した”のが原因ではとされております。のちに川内氏の家族とは和解したそうです。
そして1974年を迎え、お母さんを亡くし歌手をやっている意味を見いだせない日々が続き、この先どう生きていけばいいのかと、悶々とする毎日を過ごされていた時期と感じていましたが、フォークソング全盛期の黄金コンビ、岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲の”襟裳岬”が1月発売されたのです。ネットによると、フォークソングで、しかもこんな字余りの曲は森には合わないとの反対が多く、両A面(表面紙に題名同じ大きさで表示させた)で売り出し100万枚の売り上げ大ヒットとなり、第16回日本レコード大賞、第5回日本歌謡大賞など多くの音楽賞を獲得し、”第25回NHK紅白歌合戦”で自身初の大トリを務めたのでした。シングル盤売り出して皆さんろくに歌を聞かないうちに、今年のレコード大賞は”これまで御免なさい”とばかりに決めていたと思っています。何故かと言うとレコード大賞をなぜ彼に?と数年思っており、初めてヒットしたちあきなおみ(1992年55歳肺がんで死亡)の”喝采”や思い出したくもない佐良直美など1回ヒットしただけの両者が貰ったことに腹が立ったこと思い出したからです。世間から聞こえて来たのは”森進一は何時でも取れるから”だってさ。一つ間違えていました。この時に妹の満寿美さんを抱き寄せ、万感の思いで歌唱していた画像をネットで見てしまったのです。おかしいな?妹さん兄ちゃんの横に立った姿もっと前のステージだと思っていたのです。”おふくろさん”時代の話ではなかったみたいです。2度書きとなってしまいごめんなさい。
初めて記載するんだけど、またまた桑原会計監査に連れて行った貰った話です。雄武へ帰る途中でしたね。何年前か忘れましたが釧路湿原、根室と回った年でしたね。それらは以前記載させていただきましたが、本当は口には出せませんでしたが、襟裳岬が中でも1番連れて行ってもらいたい場所だったのです。写真たくさん撮らしていただきました。以前少しだけ記載させたこと思い出しました。島倉千代子と森進一の歌碑しっかり拝見し撮った写真大事にしております。”風はビュービュー波はザンブリこ〜””何もない〜”と二人の襟裳岬そのままの歌詞や、岬を基点にまっすぐに大小の岩群が無数につながって沖遠くまで伸びて行くかのような風景もこの上なく素晴らしく、今でも脳裏に焼け付いているのです。
1979年2月にデビュー以来14年間に渡り在籍したナベプロから独立し「森音楽事務所」を設立しました。しかし大手事務所からの独立はこの世界非常に厳しく大変だったらしいですが再起をかけて発売した”新宿・みなと町”がヒットし困難をなんとか切り抜けたそうです。この頃ナベプロで同僚だった大原麗子と1980年に結婚したのです。渡哲也の弟である渡瀬恒彦と離婚した後でした。余談になりますが弟が言うには”兄の方が人気は高いが、演技は俺の方が上だね”とのコメントが心に残りました。私は大原麗子の映画は若干見ており、私の当時の感じから”大原麗子とは相性良いとは思わない。止めとけ!”が森に対する思いでした。実際には彼女は病気がちの体を持ち、夫婦生活においてもすれ違いが多かったらしく1984年に離婚となりました。その後、不整脈の悪化が原因で自宅のベットで亡くなったのでした。彼女は浅丘ルリ子と仲が良く、後日彼女の自宅で後始末を森進一と二人で精を出している姿をテレビ番組で見て、心に残りました。渡瀬恒彦の思い出の品は結構見つかったそうですが森の思い出物は無かったようです。
1981年に秋元松代作詞、猪俣公章作曲の”それは恋”が発売されました。平幹二郎と太地喜和子(1989年まで上演)主演の”近松心中物語”の主題曲です。秋元松代の作による舞台作品であり、副題は”それは恋”となっているのです。内容はと言いますと、添い続けるために心中を余儀なくされて行く男女の物語です。実際に劇場には足を運んだことはありませんが1度だけ太地喜和子のこの舞台劇の感想をテレビ番組で見たことがあります。彼女言うには”平さんに首を絞められる場面になると、それに合わせるかのようにイントロが静かに流れ始め、森さんの歌が流れて来るのです。そして私は何故か平さんに首を絞められてもいいと思う気持ちになってしまうのです””すばらしい森さんの歌声でした”と。彼女は1976年に”寅次郎の夕焼け小焼け”に出演しております。男はつらいよの映画全50作全て見ています。1992年静岡県伊東市で公演後4人で酒を飲みその店のママさんの車で男性2人を後ろに乗せ、海を見に港に行った際、誤って自動車と共に海に落ちてしまい彼女だけ溺れ死んでしまったのです。彼女泳げなかったそうです。48歳でした。
1985年から2007年まで社会福祉活動”じゃがいもの会”を23年間にわたり、黒柳徹子と二人中心となり展開して来たチャリティ音楽会でした。ネットによると演歌・歌謡曲の歌手を中心とした音楽家の仲間に呼びかけてチャリティーコンサートの開催を企画。コンサートの入場収益、オークション、その他チャリティーレコード・CDなどの売上金の一部を、ユニセフの世界の飢餓救済募金などの社会貢献活動に寄付していました。主なる参加者は二人のほか、当時日本民謡歌手大御所であった原田直之、演歌歌手の二葉百合子、キム・ヨンジャ、大泉逸郎、香西かおりや大津美子、菅原洋一、中村美律子の皆さん達でした。勿論森昌子も参加していたのです。加えて今は亡き安倍元首相も、そろって美空ひばりの名曲「川の流れのように」や、坂本九の「上を向いて歩こう」を客席まで降りて歌い多くのファンを魅了した、とありました。しかし私はそのようなコンサート等は見たことはありませんが、1度テレビで森がカンボジアか何処かの国へ行き”先ほど飛行機で着いた所ばかりで、建設中の集会場や学校(いや保育施設だったかな)の状況見に来たのです”との報道見たのです。画面変わり、建築途中の建造物を映していた所も見たのでした。演奏活動ではないですね疑問生じていたところ、森進一は社会福祉家であり、篤志活動でもその名を高めたとあったのでした。篤志と書いて”とくし”と読むのだそうです。特に社会奉仕・慈善事業などを熱心に実行・支援する人とありました。ボランティアと何処が違うと言いますと、簡単に言うとボランティアは”無賞奉仕活動に対して使われ”篤志とは、”社会事業や公共の福祉などに熱心に協力すること。また、その心や、そのさま”だそうです。要は無賞奉仕活動か、有賞無賞に関係なく奉仕活動の違いなのでしょう。もう少し記載させていただくと、ボランティアは、社会に貢献する「人」を表すだけでなく、社会へ貢献する「行為」そのものの意味も含まれていて、篤志家は、社会に貢献する「人」を意味するのもであり、「行為」自体の意味は含みません。とありました。そして篤志家と呼ばれる人は、マザーテレサやビルゲイツと記載されておりました。建造物を自費で建て訪れた彼は上記二人と同レベルの人なのでしょうか。ならば心大きい人なのですね。おそらく幼い妹と弟含めた3人を女手一つで生活保護まで受けながら懸命に育ててくれた母への想いを、永遠に心に焼け付けていることから出て来た行動かも知れませんね。
森進一と森昌子はこの活動により仲良くなり1986年に結婚となりました。失礼ながら大原麗子の時は賛成とは行きませんでしたが今回は大賛成でした。テレビで結婚式生中継され、視聴率が45、3%と驚異的な数字で、国民の半分弱が見たという報道もありました。その後3人の子宝にも恵まれ、おしどり夫婦として有名だった二人でしたが、2005年に離婚が発表されたのでした。
きっかけとなったのは、昌子が2001年に、大晦日の『紅白歌合戦』へ出演したことかららしいです。以降頻繁に夫婦でジョイントコンサートを行うようになったそうで、その一方で家庭での子供達と向き合う時間は減少し、昌子はこれに心を痛め、やがて心身に支障をきたしてしまい、このことが結果的に、それまで仲の良かった夫婦生活にヒビを入れる形となったとありました。2005年2月には過呼吸で倒れ、緊急入院するほどになってしまったとあり、これが離婚の原因だったのでしたか。
ただお互い歌手同志でもあり妻に”ステージ一緒に立とう”と、彼それなりの思いも当然あった事でしょうし。彼女離婚した後、かなり一人でステージ等で歌っていた時期もあり、非常に残念に思っている次第です。夫の森もC型肝炎とか肺がんとか病気持ちでもあり、その後すっかり顔まで変わり”爺さん顔に変わってしまったな”と感じています。妻として一番傍いてほしい人と思っていたのですが・・。
2006年に”たずねて小樽”と言うシングルを購入し、幼い頃母連れられ問屋さんに行った時泊まった街です。次男が会社に入る前でしたか二人で雄武に行く道で寄ることになり裕次郎の施設あることは知っていましたが始めて小樽はガラス細工を売る街なんだと知ったのでした。
2年ぶりの新曲が発売されました。ヒットメーカー・阿久悠が、森進一のために遺した未発表作品に森自身が曲を付けて制作した”さわりは名調子”と言う曲で7月13日(水)発売でした。
少しおまけになります。昨年”人生、歌がある”と言う森進一主演の番組録画して見たのです。他に5人ほどの歌手出演しており、出演者皆さんがそれぞれ自分の持ち歌披露したのち、森が画面中央で椅子に座り、それぞれの歌手が横に立ち森の持ち歌を歌ったのです。トップは石川さゆりが森の横で頭を下げたのち”それは恋”を熱唱したのでした。歌い終わり森が彼女に顔を向け”ありがとう”と言ったように口の動きで分かりました。そして番組の最後にまたさゆりちゃんと一緒に歌う場面となり、森が”雨”と言う歌を歌おうと注文を付け、さゆりちゃん言うには”私は一緒に歌えません!森さんのファンの1人ですから見ているだけでいいのです”と、ほほ笑みながら言ったのです。森が”良いじゃないか、二人で練習したじゃないか”と返したのです。シッカリと二人で歌え切ったのです。実は私はその歌を初めて知ったので調べて見ました。森の75曲目の”うさぎ”と言う生活感を持った大好きな歌のB面松山千春作詞作曲作品だったのです。常識的には両者歌手同志での選択曲は”誰でもが知っている歌”と思っています。しかも彼さえ歌詞忘れていても仕方のない昔の自分の持ち歌であり、しかもB面曲を彼女と一緒に歌ったのです。
遠い昔に戻ります。彼女は15才に”かくれんぼ”と言う曲でデビューしたのでした。その時のシングル盤の紹介表紙の絵姿よく記憶しております。帽子を被り、後ろ姿を見せる中、可愛らしい顔だけを少しだけこちら見せた姿の画像でした。どうして記憶あるかと言うと、出版会社は森と同じ日本ビクター社であり作曲は猪俣公章でして、当然森進一は10年下の彼女を大変可愛がったと推察しているのです。その時代は「花の中三トリオ」(森昌子・山口百恵・桜田淳子)の影に隠れたこともあってか、大きな人気を得るには至らなかったのですが、皆さまご存じのとおり4年後位でしたか”津軽海峡・冬景色”が大ヒットとなったのです。またまた余談になりますが、のちにマネージャと結婚し女の子産んだのですが、夫の家に住うことになり、夜は必ず家に戻って来るようにと注文付けられ、歌手として通常絶対に不可能な注文でして間もなく離婚となったのでした。御免なさい。このフレーズに限り本音は何を言いたかったと言いますと、私の次男と娘さんは実は同じ年(1984年)に生まれただけの事なのでした。
次男もう38才になったのか。だとすると長男は40才であり独りぼっち住まいのおじさんか。このおじさん私の個人的想いだけですがパソコンの天才なのです。困難な状況に対し、やって来て必ず解決してくれるのです。ただし終わるとすぐに”じゃァ”と言って帰るのです。話すことも無し、なんの仕事しているかも知りません。ただ私より3つ離れた駅から数分の所に家を構えておりまして、私の生き死の時は、早めに看取ってくれるかも知れないと勝手に思っているだけなのです。昨年の夏、電話で雄武の兄の電話教えてと言うから、そうして上げたら、しばらく経って札幌在住の兄の次女アキちゃんから昨日父さんから電話が入り”雄武まで東京から単車に乗ってアキちゃん遊びに来ぞ、と言って。お酒の飲み過ぎもあってか、泣き声にも聞こえ、すごく嬉しそうに電話あったよ”だってさ。同じアキちゃん二人でした。でも雄武の兄は俺の子供はアキちゃんとは呼ばないはずですよね。息子達の年齢は忘れていただけも加え、御免なさいでした。
自分ながらかなり充実感を持って記載したと思っております。いろいろ調べたこと多々あり1週間は費やしたかな。頑張ったおかげで7月25日に一応誤字・脱字直したし完了とします。相撲番組応援したし、MLBオールスター戦で大谷翔平1番でヒットも打ったし、10勝目は何時かな。22日日曜日マンション”の夏祭り”の手伝いも無事終えたし、昨日野村会長と桑原会計監査の二人に今後の「東京・雄武会」の在り方に関してのメール送ったことだし、少し早いけど最後の公開する予定です。
東京地方とうとう1日コロナ「第7波」急襲し、ここ数日感染者数2・3万人を超えているのです。北海道も日々3千人超えているようですね。なんといいましても、巨人のチーム編成困難となり22日からの中日との3連戦中止となりました。相撲含め他のスポーツ界でも感染者数出ているそうですね。実に寂しい限りです。東京の状況こうですので、雄武町に避難したい所でしたが、そうもいかなくなりましたね。我が故郷雄武町に感染者出たようだと兄から連絡入ったのです。いったいこれからの生活どうなるのでしょうか。29日に4回目のワクチンを打ちに行って来ます。日本の薬メーカ一塩野義でしたか一向に音沙汰ない中、外出時はマスク着用し,帰って来たら手を洗う。今だそれしか対応策無いのですか。政治家の皆さん!高い給料貰っていただいているでしょうし、これはと言った対策是非考えて下さい。さもないと又同様なこと街角で起こる可能性あるかも!知れませんよ・・・。しかしながら私の挨拶だって毎月はおろか、皆様への私最後の”お知らせ”だって”皆さんお元気お過ごし下さい”ただそれだけしか言えないのです。ひと様のこと偉そうに言えませんね。
それでも最後の挨拶はやっぱり”皆さんお元気お過ごし下さい”が最後の「東京・雄武会」のご挨拶なのでした。本当に長い間お付き合いいただき真に有難うございました。